EUREKA!

文責:ちく

「何もキミだけが、幻想の世界に生きているんじゃない」

「誰だってそうなんだよ」

「すべてが現実なんだよ」

「物語はフィクションじゃない。現実なんだよ」

(『ONE ~輝く季節へ~』より、主人公と「同じ目をした」少年の言葉)

 ADVという形式の物語は、わたしたちが直接ストーリーに介入し、影響を及ぼす。
 当然といえばそうである。
 第一それができなければADVではない。

 わたしがおもしろいと思うのは、同じ現象が反作用的にわたしたち、つまり「わたしたちの物語」にも起こるということ。
 そしてここでいう「物語」とは、=「世界」である。

 そこで興味深いのが上記の一節。
 鍵っ子にとっては鍵作品ならずとも縁が深いであろう「ONE」、その氷上シュンシナリオからの引用である。
 後のKEY作品においても、通奏低音、というか旋律にも和音にもなる言葉だ。

 この言葉は、主人公である折原浩平その人だけに投げかけられたものではない。
 それも当然、読者はわたしたちだからだ。
 世界観の説明的役割を担う人物・シナリオという位置づけからか、読み手に対しての語りかけという色彩は特に強い。

 この、主人公と「同じ目をした」少年、氷上シュンの性格上、一見なにやら仄めかしの強い面倒くさい文章に感じる。
 が、蓋を開けてみれば、伝えんとするところは案外文字通りであり、実はそんなに深く考える必要もない。
 カンタンにまとめてしまえば、「幻想の世界=現実=物語」ということである。
 とはいえ、いくらなんでもこのままではちょっと?なのも事実。

 そこで実験。
 「幻想の」という形容詞を、似た別の言葉に置き換えてみる。
 例えば、「主観的な」。
 「主観的な世界=現実=物語」
 というわけ。

 けれども、これにイエスと頷いてもらうためには、前提条件を承諾してもらうことが必要になる。
 まず「真に客観的な世界」など存在しないということ。
 そして「客観的な世界」というのは「多くの主観の同意に基づいた世界」でしかないということ。
 残念ながら、この点は誰にでもはいそうですね、と受諾してもらうことはできないだろう。
 わたしが見るも無残、バッサリ切り捨てられるとしたらこのポイントだろう。無念。

 と、いうわけで、
 「客観的な世界=多くの主観の同意に基づいた世界=主観的な世界=幻想の世界=現実=物語」
 ということになる。ぜえぜえ。

 つまり「世界」は外側であろうが内側であろうが、どこまで行っても「世界」でしかないのだ。
 作中の「えいえん」という言葉がそれ以上のものでも、それ以下のものでもなかったように。

 ここにきてようやく、最初に提示した「物語」=「世界」が成り立ちましたとさ……、ということになる。
 えっ、やっぱりそれだけなんだね、じゃあ今までの努力ってさ……、なんかちょっとさ…。

 そこで今思い出したのだが、僕(なんとなく人称変更)は別に氷上ワーズの分析がしたかったわけじゃあない。

 ネタバレになるので深く述べることは避けるが、作中、折原浩平の命運は始終完全に「思い」が紡ぎ出すものに委ねられている。
 すべては「思い」から始まり、「思い」ゆえにその場所へと向かい、絆を結んだ他者と彼との「思い」によって帰還する。

 僕が「ONE」を読んだのは、まだ最近のことであるが、この作品は発表当初(約10年前)、相当な話題、評判となったらしい。
 それはつまりこの物語に胸を打たれ、心を動かされた人たちが数多くいたということだ。
 あたりまえだが。

 きっと当時は、
 夕暮れの交差点に立ち止り空を仰いで「……」と三点リーダしたり、
 屋上で夕焼けに点数をつけてみたり、
 喪服を着て自転車で誰かを迎えに行きたい衝動に駆られた人も少なくなかったのではないか(あまり多すぎてもどうかと思うが)。

 まあでも、そういう表面的なところから始まるものなのかもしれないな。

 同じ目をした友人、
 ただ一途に何かを待ち続けるクラスメイト、
 光を失っても笑顔を失わなかった先輩 、
 そしてそこでも、ずっとそばにいてくれたキミの姿に、もっと本質的なところで自分自身の物語を書き換えられた人もいたことだろう。

 物語は、それを読むという行為を通して、僕たちの物語に影響を及ぼす。
 ときにそれは「世界」を深め、そしてときに侵食する。

 人と人とが共感し、思いと思いが相互に作用するのなら。
 物語と物語が共鳴することに、なんの不思議も不自然もない。
 そしてそれは、世界と世界が響き合うこと。

 絆を結ぶこと。

 「同じ目をした」少年も、最初否定していながら、サイゴのときにそれを望み、自身の物語、「世界」を全うした。

 人は思いを生きる。
 人は物語を生きる。

 人は思いという物語を生きる。

 なら。
 人の数、思いの数だけ、「世界」は存在するのだろう。

 僕はこんなふうに考えるのがとても好きである。

ちく


という訳でちくさんに書いて頂きました。ONE~輝く季節へ~の考察でした。

解説 (安眠枕)
 世界は人の数だけ存在する-
 しかし忘れないで欲しい。世界=物語は、存在出来ないまま失われてしまったものもあるはずだ。
 東浩紀はゲーム的リアリズムの誕生で、麻枝作品をこう評価している。
「選択は確かに喪失を伴うが、なにかを失わなければなにを得る事ができない、という主題を読み取る事ができる」
 つまり、主人公=我々が選択する事で生まれる世界もあるが、失われた世界は確かに存在するのだ。

 実際に我々は、常に選択を迫られて生きている。 今A,Bという二つの選択肢からAという選択をした場合、「Bを選んだ世界」は存在しない。 存在しないまま失われてしまう。

 実際の世界では時を遡る事は出来ない。しかし、何かを得た裏には、確実に失われた世界がある。 Kanonでは、誰か1人にしか奇跡は起きないのである。他の4人の為にも私達は自分が選んだ世界=物語をしっかりと生きなくてはならない。

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